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上杉家
上杉謙信 うえすぎ けんしん (1530~1578) 上杉家
越後守護代・長尾為景の子。「越後の龍」と謳われ、自らを軍神・毘沙門天の化身と信じて戦い続けた戦国時代最強といわれる名将。父・為景の隠居後、家督は兄・晴景が継いでいたが、晴景は病弱で統率力に欠け、芸事を好む性格であったため、見兼ねた家臣らの推挙と越後守護・上杉定実の仲介によって晴景は隠居となり、家督を継いだ。その後、定実が跡継ぎのないまま病没し、越後守護家が断絶すると、将軍・足利義輝の命で越後守護を代行することになる。私欲なく、戦は常に「義」によって行われ、有名な戦いには、信濃を追われた国人衆の領地奪還をめざした武田信玄との川中島合戦や、北条氏康によって領地を追われた関東管領・上杉憲政を推したてての小田原城攻めなどがある。小田原攻めの帰りには、鶴岡八幡宮で将軍・義輝の許可を得て上杉憲政から正式に関東管領職と上杉姓を引き継ぐなど、権威を失っていた幕府にも忠義を尽くした。宿敵・信玄の死後は越中、能登に侵攻して織田信長と戦う。手取川の戦いで織田家の猛将・柴田勝家を打ち破り信長を震撼させるが、翌年に厠で倒れて昏睡状態となり、そのまま亡くなった。
<辞世の句>
極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし
四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒
<春日山壁書>
運は天にあり 鎧は胸にあり 手柄は足にあり
何時も敵を掌中に入れて合戦すべし
死なんと思えば生き 生きんとすれば必ず死するものなり
運は一定にあらず 時の次第と思うは間違いなり
武士なれば 我が進むべき道はこれほかなしと 自らに運を定めるべし
上杉景勝 うえすぎ かげかつ (1555~1623) 上杉家
長尾政景の子。母は謙信の姉・仙桃院。父・政景が宇佐美定満と謎の溺死を遂げると、それを憐れに思った謙信のはからいで養子となる。謙信が亡くなると、家督をめぐって、もう一人の養子・上杉景虎との間で御館の乱を引き起こすが、これに勝利して家督を継いだ。御館の乱で国内が乱れている間に能登、越中へ織田家の猛将・柴田勝家の侵攻を許し、さらに越後との国境近い魚津城を攻められ危機に陥るが、落城直後に本能寺の変が勃発。勝家が城から撤退したことで辛うじて越後への侵攻は防いだ。その後、柴田勝家に勝利した羽柴(豊臣)秀吉とは良好な関係を築き、蒲生氏郷の死後、徳川家康と伊達政宗の抑えとして会津へ転封となり120万石の大大名となる。秀吉の死の直前には五大老のひとりになるなど信頼されたが、義理固さが仇となり、関ヶ原の戦いで石田三成と共に徳川家康に挑むが敗れて米沢30万石への減封となった。減封後は藩政改革につとめて米沢藩の礎を築く。大坂の陣には徳川方として参陣。冬の陣での鴨野口の激戦で武名を大いに高めた。
長尾為景 ながお ためかげ (?~1542?) 上杉家
越後守護代。上杉謙信の父。1506年に父・能景が越中一向一揆との戦いで討死したため家督を継いだ。越後守護・上杉房能が権力の集中化をはかり、為景ら在地領主に与えられていた特権を奪おうとするだけでなく、為景の排斥まで画するようになると、房能を追放して房能の娘婿・定実を守護に擁立した。そのため、房能の兄で関東管領だった顕定の侵攻を受け、一時越後を追われることもあったが、すぐに反撃に転じて越後に復帰し、越中や加賀へも転戦して勢力を拡大した。しかし、その後、傀儡にすぎないことに不満をもった定実や定実を支持する揚北衆ら国人の反発を受けて隠居に追い込まれ、家督を子・晴景に譲ることになった。
長尾晴景 ながお はるかげ (1509~1553) 上杉家
越後守護代。為景の子。上杉謙信の兄。父・為景が、越後守護・上杉定実とそれを支持する揚北衆らに隠居に追い込まれたため家督を継いだ。父と違い定実とは比較的良好な関係を築いてある程度の成果を挙げたが、統率力不足から黒田秀忠に反乱を起こされるなど国内は不安定な状態が続いた。その状態を実弟である景虎(のちの謙信)が収拾すると、景虎を当主に望む声が高まり、最後は定実の仲介によって隠居し、景虎に家督を譲った。
上杉景虎 うけすぎ かげとら (1554~1579) 上杉家
北条氏康の七男。はじめは北条三郎と名乗ったとされる。上杉謙信と北条氏康との間で越相同盟が結ばれると、北条家の人質として謙信のもとへ送られた。謙信には、たいそう気に入られて養子となり、謙信の前名である景虎の名を与えられると同時に謙信の姪(景勝の姉)を娶った。謙信が亡くなると、もうひとりの養子・上杉景勝と家督をめぐって御館の乱を引き起こすが、終始後手に回ってしまい敗死した。
甘粕景持 あまかす かげもち (?~1604) 上杉家
上杉家臣。越後十七将のひとり。出自は諸説あり。勇気智謀を兼ね備えた武将と伝わる。初名は長重だったが、景虎(のちの謙信)から偏諱を受け景持と名乗るようになった。謙信に従って小田原攻めや川中島合戦に参加、第四次・川中島合戦では殿をつとめ、その勇猛ぶりから武田家諸将の間に謙信自らが殿をつとめているとの噂がたったという。謙信死後の家督争い「御館の乱」では景勝を支持、景勝が上杉家当主となってからも重用され、新発田重家の乱鎮圧でも活躍した。官位名は近江守で川中島合戦で活躍した近江守景持と新発田重家の乱で活躍した甘粕近江守は別人との説もある。
甘粕景継 あまかす かげつぐ (1550~1611) 上杉家
上杉家臣。上田長尾家の家臣・登坂清高の子。名門の甘粕継義が跡継ぎなく討死したため、謙信の命により甘粕家を継いだ。同じ姓の景持は縁戚にあたる。槍と長刀の名手で戦略・戦術眼に優れていたという。御館の乱では景勝を支持、乱終結後も重用され、上杉家が会津へ転封となると白石城代に任命され2万石を拝領した。関ヶ原の戦いでは白石城を留守中に伊達政宗に奪われ景勝の怒りをかう。以後は冷遇され1611年に自害したと伝わっているが、詳細は不明。
泉沢久秀 いずみさわ ひさひで (?~1615) 上杉家
上杉家臣。景勝の側近。直江兼続と共に早くから景勝に仕え財務官僚として活躍した。会津転封の際には1万1千石を得ている。関ヶ原の敗北後、上杉家が120万石から30万石への大減封となった中、兼続の「知行三分の一」の原則に対して四分の一の減封に応え、財政担当者としての責任を果たした。のちに兼続の与力になったとされるが、跡継ぎがなく、死後泉沢家は断絶した。
宇佐美定満 うさみ さだみつ (1489~1564) 上杉家
上杉家臣。越後十七将のひとり。上杉謙信の軍師で越後流軍額の祖。初め越後守護・上杉家に仕えたが、守護代・長尾為景(謙信の父)との戦いに敗れ家臣となる(諸説あり)。為景の死後も、晴景、謙信と仕え、謙信の代には、反旗を翻していた長尾政景(景勝の父)を屈服させるなど越後の統一に貢献した。永禄年間(1558~1570)には、すでに70歳を越えていたため、隠居していたと考えられている。1564年、長尾政景と共に舟遊び中に謎の溺死を遂げるが、これは将来の上杉家(長尾から改姓)のことを考えて、かつて反乱分子であった政景を排除したといわれる。その後、宇佐美家は謙信の跡を継いだ景勝(政景の子)によって冷遇され没落した。
大国実頼 おおくに さねより (1562~1622) 上杉家
上杉家臣。直江兼続の弟。御館の乱では兄と共に景勝方で戦い、景勝家督相続後に小国重頼の養子となって家督を継ぎ、苗字を「大国」と改めた。上杉家が豊臣家に臣従したのちは、聚楽第建造の祝いの使者をつとめて京都との繋がりをもち、連歌会に出席するなど文化人としても活躍する。その後、兼続が本多政重を婿養子に迎えようとすると強く反対、関係者を殺害して高野山に逃れた。兼続死後、米沢に戻り亡くなったといわれる。
大熊朝秀 おおくま あさひで (?~1582) 上杉家
上杉家臣。越後守護代・長尾家に仕え、謙信の家督相続にも貢献した。段銭収納を担当すると同時に奉行としても活躍する。家中の内紛に嫌気がさした謙信が引退騒動を引き起こすと、武田信玄に内通して謀反を起こした。しかし、謀反は失敗し、信濃へ逃れて武田家臣となる。信玄死後も勝頼に仕え、織田・徳川による甲州征伐が始まっても、最後まで勝頼に付き従い、天目山で討死した。子孫は真田家に仕えた。
柿崎景家 かきざき かげいえ (1513?~1574) 上杉家
上杉家臣。越後十七将のひとりで「和泉(景家)にして分別あらば、越後七郡中手に合う者有るまじ」とまで謙信に言わせた上杉家随一の猛将。謙信の父・為景の代から仕え、晴景(謙信の兄)と謙信(当時は景虎)の家督争いの際には謙信を支持して相続に貢献した。謙信の軍事行動のほとんどに参加し、第四次・川中島合戦では先鋒として武田本陣に突撃をかけ信玄の弟・信繁を討ち取ったといわれる。奉行として内外政でも活躍しており、北条氏康との越相同盟の際には子・晴家を人質として送って成立に貢献した。織田信長との内通を疑われて殺害されたといわれていたが、最近では否定されている。
上泉泰綱 かみいずみ やすつな (1552~1600) 上杉家
上杉家臣。剣聖・上泉信綱の孫。父の代から北条家に仕えたが、小田原征伐で北条家が滅びると浪人し、関ヶ原の戦い直前に上杉家に登用された。直江兼続の元で最上家と戦うが、長谷堂城の戦いで最上家の名将・志村光安に敗れ討死した。
小島弥太郎 こじま やたろう (?~?) 上杉家
上杉家臣。諱は貞興という。軍記ものには鬼小島弥太郎の名で登場する。「鬼小島」の異名で恐れられた強力無双の豪傑で、若い頃から上杉謙信に仕えたというが、実在が怪しまれている。武田信玄のもとに使者として赴いたとき、弥太郎を驚かそうと放たれた猛犬を素手で殴り殺したり、武田家随一の猛将・山県昌景から「花も実もある勇士」と評されたという逸話がある。
斎藤朝信 さいとう とものぶ (1527~1591) 上杉家
上杉家臣。越後十七将のひとりで「越後の鍾馗」といわれた智勇兼備の将。謙信、景勝の二代に仕え、特に関東方面での戦いで活躍。先陣を多くつとめ、奪った城の城将には必ず選ばれるほど謙信の信頼が厚かった。謙信が、鶴岡八幡宮で関東管領職と上杉姓を引き継いだ時には、柿崎景家と共に太刀持ちの名誉を得ている。謙信死後、景勝と景虎との間で起きた家督争い「御館の乱」では景勝を支持し、景虎を支持していた武田勝頼との軍事同盟を成立させて勝利に貢献した。乱の終結後も魚津城に迫った織田家の猛将・柴田勝家を撃退するなど活躍したが、本能寺の変後まもなく、老齢のため隠居した。曲者揃いの上杉家中で人格者として知られ、慈悲深い農政や、私財を家臣に配すなど善行を多く行ったため、誰からも慕われたという。
志駄義秀 しだ よしひで (1560~1632) 上杉家
直江兼続配下で与板衆筆頭。幼いころに近い身内が亡くなったため、母の実家である直江家に引き取られ養育された。成人後は上杉景勝に仕え、御館の乱では兼続と共に景勝の家督相続に貢献し、その後、兼続配下となる。慶長出羽合戦、大坂の陣などで活躍。兼続死後は国家老となり、景勝死後も定勝(景勝長子)に仕えて定勝の婚儀を取り仕切った。
新発田重家 しばた しげいえ (1546~1587) 上杉家
揚北衆のひとり。長敦の弟。当初は家を出て五十公野家を継ぎ、五十公野治長と名乗った。謙信の代から上杉家に仕え、川中島の戦いや関東遠征に参加した。御館の乱では兄・長敦と共に景勝を支持して景虎に味方した伊達輝宗、蘆名盛氏を撃退し、景勝の家督継承に多大な貢献をした。兄の死後、家に戻って新発田家を継ぐが、乱後の論功行賞の不満から反乱を起こす。景勝が周辺を敵に囲まれていたこともあり、反乱は7年にも及んだが、景勝が豊臣秀吉の後ろ盾を得ると次第に劣勢となり、最後は自害した。
新発田長敦 しばた ながあつ (1538~1580) 上杉家
揚北衆のひとり。晴景、謙信、景勝の三代に渡って仕えた。謙信の死後、上杉家の家督争い「御館の乱」では、景勝を支持。斎藤朝信と共に武田勝頼との軍事同盟成立に貢献し、景虎についた伊達輝宗、蘆名盛氏を撃退した弟・重家共々、景勝の家督継承に多大な貢献をした。しかし、乱後、思うような恩賞が得られず、失意のうちに病没した。家督は養子に出ていた弟・重家が戻り継いだ。
須田満親 すだ みつちか (1526~1598) 上杉家
信濃の国人。はじめ村上義清に属して武田信玄と対立したが、義清が敗れると上杉謙信を頼った。信濃一向一揆の指導者であったことから、謙信の元では一向宗との交渉役として活躍した。謙信死後は景勝に仕えて海津城代となる。真田昌幸が徳川家康と対立すると、昌幸との交渉役となり、人質として信繁(幸村)を預かった。上杉家中では直江兼続に次ぐ大身で1万2千石を領有したが、のちに不手際で改易となった。上杉家の会津転封が決まると、先祖代々の地である海津城で自害したという。跡を継いだ子の長義は引き続き景勝に仕え関ヶ原の戦いや大坂の陣で活躍した。
直江景綱 なおえ かげつな (1509~1577) 上杉家
上杉家臣。謙信の信頼篤かった股肱の臣。越後十七将のひとり。最初の諱は実綱といった。謙信の父・為景の代から仕え、為景の死後、晴景(謙信の兄)と謙信(当時は景虎)の間で争いが起こると、謙信を支持して家督の相続に協力した。謙信が当主となってからは特に奉行として内政・外交にらつ腕をふるい、謙信2度目の上洛の際には朝廷と幕府との折衝にあたり、前関白・近衛前久が越後に下向した際には饗応役をつとめるなど事実上執政の役割を果たした。第四次・川中島合戦では軍奉行または小荷駄奉行をつとめたといわれる。1576年には能登遠征にも従軍したが、その翌年に病没した。跡継ぎがいなかったため、娘・お船の婿・信綱が家督を継いだ。
直江兼続 なおえ かねつぐ (1560~1619) 上杉家
上杉家臣。樋口兼豊の子。上杉景勝に仕えた名参謀。越後十七将のひとり。父・兼豊が長尾政景に仕えていたため、政景の子・顕景(のちの上杉景勝)に小姓として仕える。19歳の時、謙信が厠で倒れ昏睡状態に陥ると、看護していた直江景綱の未亡人と口裏を合わせて跡目は景勝であると宣言。御館の乱で景勝派の中心人物として活躍し、景勝の家督相続に貢献した。乱の終結後、論功行賞の不満から殺生事件が起き、その巻き添えで直江信綱が亡くなると、景勝の勧めで信綱の未亡人・お船と結婚して直江家を継ぐ。羽柴(豊臣)秀吉が天下統一への道を歩み始めると、渋る景勝を説得して上洛し、その才幹を秀吉に賞された。関ヶ原の戦いでは、石田三成と謀って徳川家康に挑戦状ともいえる「直江状」を送りつけ対立するが敗北する。戦後、上杉家は120万石から30万石への減封となるが、執政として藩政改革につとめ、譜代家臣を一人も浪人させることはなかった。大坂の陣には景勝と共に出陣。景勝、兼続の采配による上杉軍の奮戦は家康の賞賛を受けた。
直江信綱 なおえ のぶつな (?~1581) 上杉家
上杉家臣。直江景綱の娘婿。景綱の死後、奉行職を引き継いだ。謙信死後に起きた上杉家の家督争い「御館の乱」では景勝を支持し、その家督相続に貢献したが、論功行賞の不満から起きた殺生沙汰の巻き添えとなって亡くなった。未亡人となったお船は、のちに樋口兼続と再婚し、兼続が直江家の名跡を継いだ。
長尾政景 ながお まさかげ (1526~1564) 上杉家
上田長尾家の当主。上杉景勝の父。正室は謙信の姉・仙桃院。魚沼郡上田庄を中心に独自勢力を保ち、越後守護代・長尾為景(謙信の父)の新守護擁立に協力した。為景死後、支持していた晴景(謙信の兄)が、謙信に家督を譲ることになると、それに不満をもち、謙信に対して抵抗する。その後、謙信の姉・仙桃院を妻に迎えることで和睦。のちに屈服して謙信の家臣となった。最初は信用されなかったが、謙信がまとまらない家臣団に嫌気がさして出奔した際に、家臣を代表して政務の復帰を懇願。結果、家臣団がまとまったことから重用されるようになる。その信頼は春日山留守居を任されるほどになるが、宇佐美定満と舟遊び中に溺死した。共に溺死した定満がかつての反乱分子だった政景を信用しきれず謀殺したといわれる。
樋口兼豊 ひぐち かねとよ (1539~1602) 上杉家
上杉家臣。直江兼続の父。長尾政景に仕え、低い身分から家老にまで出世した。政景死後は謙信に仕え、謙信死後の御館の乱では子・兼続が景勝の小姓をつとめていたこともあって景勝を支持した。上杉家の会津転封にも従い、兼続が出陣などで米沢城を留守にする時は留守居役をつとめた。
本庄繁長 ほんじょう しげなが (1539~1613) 上杉家
揚北衆と呼ばれる国人領主のひとりで越後十七将のひとりにも数えられた。叔父に父を殺されるなど波乱な少年期を送るが、のちに仇をとって領地を拡大した。上杉謙信が力を増してくると家臣となり各地を転戦して活躍したが、論功行賞の不満から武田信玄と組んで反乱を起こすこともあった。子・顕長を人質にだして帰参してからは謙信に背くことはなかったが、謙信死後の御館の乱で自身は景勝、顕長をもう一方の勢力である景虎につけることで家の存続を図るという食えない一面を見せた。結果、景勝が勝利したことでそのまま仕えるが、顕長は廃嫡となる。その後は新発田重家の乱鎮圧などで活躍。関ヶ原の戦いでは福島城を任され伊達軍の猛攻を防いだ。
前田慶次 まえだ けいじ (1543?~1612?) 上杉家
槍をとれば天下無双と謳われた傾奇者。諱は利益、通称は慶次郎とも。本来は滝川一益の一族だが、母が前田利家の兄で前田家の当主・利久に再嫁したため前田家の跡取りとなった。しかし、織田信長の命で利家が前田家を継ぐことになると、隠居させられた義父・利久と共に城を退去し浪人となる。利家が能登一国の領主になると帰参して末森城の戦いや小田原征伐などで活躍するが、養父・利久の死により前田家との縁がなくなると出奔。その後は京都に出て多くの文化人と交流し風流人としても名を馳せた。関ヶ原の戦いでは西軍についた上杉家に仕官して友人・直江兼続の元で長谷堂城の戦いに参加する。西軍敗北の報が届いたのちの撤退戦では兼続と共に殿をつとめ、苦境に立たされ自害しようとした兼続を諫めて無事帰国を果たした。戦後はそのまま上杉家に残って隠棲。風流三昧の生活を送り米沢郊外の堂森で亡くなった(諸説あり)。